油桐栽培の衰退

油桐の衰退

 

前回紹介したように、桐油は様々な用途に使用されました。工業用途や生活用品になくてはならないものでしたし、農家経済に大きな影響がありましたし、福井の一大産業でした。約400年にわたって福井で栄えた油桐産業でしたが、今ではそうしたことは福井県民の大多数が知らないでいます。歴史から消え去っています。

油桐栽培、桐油産業は衰退したのでしょうか。

油桐栽培は自然的要因、社会的要因の両方から衰えていきました。自然的要因では害虫の発生による被害があげられます。これは江戸時代から何回も発生したのではと思いますが、やはり油桐単作が広がった事による生態系の問題があるのではないでしょうか。昭和10年の毛虫被害はひどかったようで多くの木が枯れたようです。しかし、この頃から油桐価格は急上昇していったのですが。

昭和10年(1935)ごろ大発生した毛虫が葉を食い荒らし、木が枯れたため生産がおとろえた(美浜町誌)

 

病害虫の点では、林野庁が「優良特産林業地集」という冊子で詳しく報告しています。この林野庁の冊子は昭和32年に発行されたものですが、島根県野波村(現松江市島根町)での油桐栽培をまとめたものです。福井県の方が大産地だったのですが、島年県の方が生態や病害虫に関する研究は進んでいたようです。

そこでは2種類の病害虫が紹介されています。

  • オオキンカメムシ

 未熟な果実に口吻を挿入し、果汁を吸い、害を受けたものは不稔果となり、落下するかまたは落下せざるものも種肉は腐敗しており・・・被害種子の混入により搾油率の低下、桐油の品質低下等となってその被害は甚大である。

  • キオビゴマダラエダシャク

 古老によると20年~25年を周期として発生しているようである。・・・明治30年頃に大発生し、その後大正5年、昭和11年に発生し、昭和28年に再び異常発生している。・・・被害はきわめて甚大で、アブラギリは葉脈まで1葉も残さず、枯木状態となり、1樹を喰害しつくすと地上に落下し、地表の草という草を喰害しつつ次の樹に移動し、樹幹を這い上がり、猛烈な勢いで喰害する。

 

特に「キオビゴマダラエダシャク」は、読むだけでおぞましさが伝わってきます。この虫は対策がなかったようです。おそらく福井での昭和10年頃の被害はこの虫だったのでしょう。この年の被害で油桐栽培をやめた産地が多かったようです。

社会的要因としては石油の普及、中国からの桐油の輸入、石油の輸入があげられます。石油に関しては江戸時代から知られていたのですが、日本では秋田県、新潟県で石油掘削を開始し始めました。明治5年には新潟で石油ランプが普及し始めます。
その後は日露戦争で需要が増大したのですが、大正時代になり石油が輸入されはじめ灯油用として需要がなくなったのではないかと思います。
また、昭和時代にはいると中国からシナ油桐が輸入され始めます。

さらに虫の被害や工業の発展、戦争による人手不足等の要因により油桐栽培、桐油産業は急速に廃れていきました。
第2次世界大戦により統制品として需要は増大しましたが、戦後は再び輸入が開始され、日本の桐油産業は衰退し、江戸時代から約350年続いてきた油桐栽培、桐油産業は幕を閉じました。

明治以降に石油ランプが普及し、さらに昭和初期(1920年代末)に安価なシナキリミアブラが輸入されるようになると国内のコロビ需要は急激に落ち込んだ(美浜町誌)
外国からの油の輸入も順調になった上、特に人造油の発達に加え、農村の人手不足、重労働敬遠の思想と相待って、価格の不安定な桐実は見向きもされない状態になり、昔開いた桐実畑は、梅林や杉林に変わっている。(三方町郷土誌・河内区)

 

周期的な害虫被害、石油の普及、中国から安価な桐油の輸入と、油桐産業は衰退しました。江戸後期から昭和にかけて油桐栽培は徐々に、また時期的には急速に衰退していったのですが、それに合わせるように油桐から他作物へと転換していきました。
比較的広い耕地が確保出来るところは他作物への転換も早い時期から進んでいたようです。油桐は山を切り開き段々畑で栽培していたところが多いので、そうした地域は杉植林に切り替えていったところが多いようで、段々畑の杉林は元々油桐畑だったようです。しかし、他作物や杉植林に適さない様なところでは最後まで油桐栽培が続きました。常神半島の旧西田村が一番最後の産地でした。

最後まで生産を続けた三方郡三方町西田地方でも、西田農協が昭和41年(1966)に集荷したのが最後になった。(岡田孝雄氏:近代福井県の桐実と桐油の生産)

 

他作物へ転換としては、三方町では梅、柿、栗、ミカンなど、越前町、越廼村などでは水仙、みかん、敦賀市でもみかんなどで、現在でも栽培されています。他の所は杉林が多いようです。プロジェクトの拠点の美浜町新庄も杉林です。嶺北では杉林が多いですし、かなり早い時期に切り替わったようです。

海岸から離れた産地の桐畑は杉林となったが、温暖な海岸地方では梅または水仙の栽培地に切替えられた。現在、「福井梅」(旧西田梅)と「越前水仙」は共に福井県の農林業の特産品となっている。(岡田孝雄氏:近代福井県の桐実と桐油の生産)
コロビ栽培は戦後、ふたたび国外産の桐油が輸入されるようになる昭和20年代半ば(一九四五~五〇)までおこなわれた。三方町ではコロビ畑は梅・柿・栗の果樹林に転換されたが、町内の多くの畑ではその後に針葉樹が植林された。(美浜町誌)
今立郡旧服間村、河和田村の奥地でもかつて、油桐を栽培していた。ところが明治末に全部杉に転換した。同じ三方郡でも田井方面では西田梅に転換し、さらに柿、ミカン等へも転換しつつある。丹生郡旧常磐村でも杉に転換したということである。(近世若狭地方の“油桐(コロビ)”の歴史)

 

また、伐採された油桐の木は下駄の材料として加工されました。油桐の木は柔らかく加工しやすいため、栽培されていた当時でも雪で折れた木を持ち帰り下駄に加工していたようです。神子で最後に伐採された油桐の木は船に積まれて名田庄村に運ばれ炭になったそうです。油桐炭に関しては次回にまわします。

大正初期に灯用を見るに至り打撃を受け漸次下駄材として伐採し、樹数往年の約半数となった。(三方町郷土誌・成願寺区)
このとき伐採されたコロビは下駄の材料として売られた。(美浜町誌)

 

タイトルとURLをコピーしました